top of page

セレモニー - 大いなる存在を感じ取る -

スウェットロッジ・セレモニー

「私」と「大いなる存在」

​一般の方

ネイティブアメリカンの精神に触れる

~ 自分と 自分をとりまく すべての生命とつながる時・場 ~
「スウェットロッジ・セレモニー」は、アメリカインディアン(ラコタ族)に伝わる7つの儀式の一つで、ラコタの言葉で「イニィピー」と呼ばれ、それは子宮回帰を意味します。
母なる大地の子宮をシンボライズした半円球のドームの中に、私たちは四つん這いになって入っていき、囲炉裏を囲むように座ります。真っ赤に焼けた石をドームの中に運び込み、水を注ぎ、蒸気が舞い上がる中、扉が閉まるとそこは大いなる存在と自分の世界。
泣き、歌い、声をおくり、スピリットに祈り、自分のオモイを眺めて、エネルギーやプロセスを感じて、あるがままの自分のオモイを音にして、自分と語り合い、大いなる存在に祈りをおくります。
感謝すること・願うこと・尋ねたいこと・コミットメント(宣言)・・・
受けとめあい、つながり合い、全てのものとの関係に「変化と成長」をもたらす「死と再生」のセレモニーです。

てぺスウェット.jpg
ビジョンクエスト

「私」と「大いなる存在」

ネイティブアメリカンの精神に触れる

ネイティブアメリカン(アメリカ先住民)の伝統的通過儀礼のひとつ。ラコタ族の言葉では”ハンブレチア“という(「泣いてヴィジョンを求める」という意味)。
彼らは人生の節目、岐路に立つとき、つながる人々につれられ大自然の中に入り、一人きりの特別な時間(ドリームタイム)をすごす。そこで自分の魂に刻み込まれた生命の意味を、飲まず食わずの究極の状況の中、泣き・歌い・祈りさがしもとめる。そのとき、大いなる存在(導いてくれるスピリットや守護動物のスピリット)と出会い、メッセージと力を受けとる。 
毎年9月開催。

◆参加資格◆
マザーアース・エデュケーションのプログラムや松木正のワークショップ、イベントなどに参加した経験があり、インディアンの伝統文化や世界観に共感を持つ方

VQサウスダコタ2017.JPG
アメリカ大平原サウスダコタツアー

「私」と「自然」:自然回帰プログラム

ネイティブアメリカンの精神に触れる

アメリカ・サウスダコタ州にあるインディアン居留地を訪れ、ラコタ族(スー族)の人々と生活を共にする旅。ホームステイ・平原での野宿・乗馬・伝統的ダンスと歌のギャザリング・パウワウ・スウェットロッジ・聖地ベアピュートの登山など、体験できることは様々。すべて予定は、ツアーのメンバーが話し合い決めてゆきます。時間にしばられず、平原時間:インディアンタイムの中で事が進んでゆく1週間。本や、偏ったメディアからくるインディアンのイメージや情報ではなく、あるがままのラコタ族の人々のくらしや居留区の今を体感できるツアー。

ツアー rock.JPG
facebooktop.jpg
ツアー ベン.JPG
ツアー BAFFALO.jpg

ワークショップに参加したい方はこちらをご覧ください。

今後のワークショップの予定はこちらでご確認ください。

ワークショップに疑問や不安、要望がある場合はこちらからお問い合わせください。

平原インディアン ラコタ族について

私が初めてアメリカ先住民 Lakota族の住む大地 South Dakota州シャイアンリバー居留区を訪れ滞在したのが20数年前。 気がつけば Ben ELK Eagle と兄弟の契りをかわし(彼の弟となり)今では訪れるという感覚より里帰りすると言った方がしっくりくる。
自分の中では、国籍は日本におくものの魂の休むところは、Lakotaの大地だと感じている。
そんな自分にとってLakotaの事を語ることはある意味、自分の大きな部分を語ることを意味し、彼らの事を身近で親しみある存在として思いつくままスラスラと語ってしまえるところもあるのだが、本物を知っているがゆえに研究者が時々する様に知ったかぶりはしたくないし、本当に彼らに対して尊敬の気持ちをもって語りたい。

withBen.jpg

サウスダコタにてBen ELK Eagleと

ホームページの紙面では公に語る事にもなるのだから、主観と客観のバランスを失わず言葉にしたいし、それがLakotaの人々のためにも読者の人達にも良き事となる行いにしたい。
Lakotaの文化、生活様式、歴史、信仰、生き方等々 Lakotaのもつ様々な側面を自分なりにていねいにお伝えしたい気持ちが強いので、折に触れ小出しに様々な面を立体的にお伝えできればと願っています。

Lakota(ラコタ)とSiux(スー)、二つの呼び名について

 「Lakota」という部族を表す言葉より、アメリカインディアンの一部族として語られる時、彼らは「スー」(Sioux)と呼ばれることが一般的かもしれない。私自身は彼らが自分達の部族を呼ぶ時の名、Lakotaを使っている。
 「スー」はそもそも敵対していたペチワ族がラコタの人々を呼ぶ時に使った「ナ ドウェ・イスィウダ」=「小さな蛇=(敵)」に由来するもので、のちに入植してきたフランス人がそれを「ナドウェシウ」→「ナドウェスー」さらに前半分が省略され「スー(Sioux)」になったと言われている。それがのちにラコタを敵としたアメリカ人には「いつまでもまとわりついてしつこい=(降参しない)ヘビ=(敵)」として定着していったのではないかと私は思う。
 Lakotaとは同盟者≒仲間≒人と人との間で、深いつながりの中で生きる者(人間)≒兄弟姉妹≒同胞である。“我々はすべての生命ある存在とつながり深い絆の中、同じ母なる大地の子宮から生まれた兄弟姉妹、つまり同胞(はらから)であると言うのがLakotaの本来の意味だと思っている。

 もしあなたがLakotaのセレモニーに参加する様なことがあったら、その中で何度も何度も彼らが唱える“Mitakuye Oyasin”(ミタクイエ・オヤシン)を耳にするだろう。その意味は「私につながるすべてのもの」である。これは彼らの世界観を最も表した言葉だと思う。
 私がそもそもLakotaに興味を深く抱く様に成ったのは、このつながりの中で生きる「私」を大切にした、その関係性の結び方であり、その「私」のあり方である。

bottom of page